「親日派」であり、「戦争の英雄」に…ペク・ソンヨプを呼ぶ別の名前

日本植民地時代、間島特設隊勤務…親日反民族行為者に含まれ論議
韓国戦争:多富洞戦闘で北朝鮮軍の大邱進出を阻止…平壌初の奪還

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韓国軍初の四つ星将軍、白善燁(ペク・ソンヨプ)。 誰かは彼を’親日派’と、誰かは彼を’6・25戦争英雄’と呼ぶ。

韓民族悲劇の歴史である日本による植民地時代と韓国戦争当時、それぞれ正反対の道を歩んだと評価されるペク将軍が10日、享年100歳で死去した。

1920年11月23日、平安南道江西で生まれたペク将軍は、1939年に平壌士官学校を卒業し、日本が中国東北地方に建てた国家である満州国の中央陸軍訓練所を卒業した。

1943年4月、満州国軍少尉に任官し、朝鮮人独立軍討伐隊として悪名高い間島特設隊に勤務した。

親日・反民族行為を調査・研究する市民団体である民族問題研究所が出版した親日人名辞典によると、ペク将軍は1943年12月、間島特設隊基博連(機関銃・迫撃砲中隊)所属で中国八路軍攻撃作戦に参加した。 日本敗戦の時、彼の身分は満州国軍中尉だった。

間島特設隊は、日本の敗戦前まで、東北抗日連軍と八路軍を対象に108回の討伐作戦を行い、彼らに殺害された抗日武装勢力と民間人は172人にのぼる。

ペク将軍は生前、間島特設隊に勤めたことはあるが、独立軍と直接戦闘をしたことはないと主張した。

しかしペク将軍が1983年に日本で出版した『対ゲリラ戦-米国はなぜ負けたのか』という本には、間島特設隊の活動が反民族行為だったことを認める趣旨の記述が盛り込まれている。

ペク将軍は本の中で「韓国人が独立のために戦っていた韓国人を討伐したので、以夷制夷を掲げた日本の策略に完全に陥った形だった」と書いている。

ペク将軍の服務時代の1944年7月、9月、11月に間島特設隊が罪のない朝鮮人などを殺害したり、食糧を強奪したなどの記録は、当時の状況を記録した「中国朝鮮民族足跡叢書」にある。

大統領直属の「親日反民族行為真相究明委員会」は2009年に親日反民族行為者リストを発表すると、ペク将軍を含んだ。

ペク将軍が独立軍を直接討伐したかの真実は最後には明確に出ていないが、、2年余りの間島特設隊の経歴は、ペク将軍に親日派という消すことのできない汚名を残した。

ペク将軍は解放後、陸軍中尉に任官し、大韓民国政府樹立後、陸軍本部情報局長(大佐)として在職した。

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1950年4月、最前方部隊である1師団師団長だったペク将軍は同年6月25日、戦争が勃発すると、ソウルから直ちに師団司令部に移動し、部隊を指揮した。

ペク将軍が司令部に到着した当時、すでに開城は陥落し、師団は壊滅状態に陥ったという。

同年8月、北朝鮮軍の南下により洛東江戦線まで後退したペク将軍は、朝鮮戦争の中で最も熾烈だった戦闘とされる多富洞の戦いを通じて北朝鮮軍の大邱進出を阻止した。

ペク将軍が指揮する第1師団は、慶尚北道漆谷郡多富洞で、米軍部隊を避けて韓国軍を狙った北朝鮮軍と凄絶な戦闘を繰り広げた。

ペク将軍は回顧録で、「私が先頭に立って戦う。 もし私が後退したら、私を先に撃て」と拳銃を持って兵士たちと突撃をしたと振り返った。

多富洞の戦いで北朝鮮軍の鋭鋒を阻止した韓国軍と米軍は洛東江防御線を構築し、同年9月15日、仁川上陸作戦で反撃に出た。

第1師団は1950年10月、米第1機甲師団とともに合同作戦を展開し、真っ先に平壌を奪還した。 韓国戦争での活躍でペク将軍は米軍の間でも「戦争英雄」と呼ばれるようになった。

戦争中、第1師団長、第1軍団長、陸軍参謀総長などを歴任したペク将軍は、1953年1月、国軍初の大将に進級した。

1953年7月27日の休戦協定締結当時、韓国代表団として参加し、朝鮮戦争の始まりと終わりを共にした。

戦争後、休戦ラインの管理を引き受けた第1野戦軍司令官をした後、1957年に再び陸軍参謀総長を務め、国軍の現代化に努めた。

1960年代に大将として除隊したペク将軍は中国大使、フランス・オランダ・ベルギー大使、カナダ大使、交通部長官などを歴任した。

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Source: かんこく!韓国の反応翻訳ブログ