(ヤフージャパン)中国人が日本の「果物」に驚いた理由
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中国人が日本の「果物」に心底唖然とした理由
沢木耕太郎、と聞いて真っ先に思い浮かぶ言葉は「旅」という人は少なくないだろう。1986年に発売された旅行記『深夜特急』(最終巻は1992年発売)は、1980~1990年代の若者、とりわけ、バックパッカーから絶大な支持を受け、その後の旅の仕方にも大きな影響を与えた。
その沢木氏の25年分の全エッセイを掲載した『銀河を渡る』が9月末に刊行される。『深夜特急』や『一瞬の夏』などヒット作の創作秘話や後日談だけでなく、美空ひばりや檀一雄との思い出話も収録。日本を、世界を移動しながら、自身も40~70代へと旅していく沢木氏の変遷もうかがえる。今回はその中から、2015年2月の「鏡としての旅人」を掲載する。この週末、あなたも沢木氏とともに「旅」に出てみてはどうだろうか。
■東南アジアは旅行する場所ではなかった
40年ほど前、20代の半ばだった私は、1年に及ぶ長い旅に出た。計画などといったものはなく、ただインドのデリーからイギリスのロンドンまで、シルクロードを抜けて乗り合いバスで行こうという大ざっぱなイメージしかなかった。ということは、そのときの私の意識の中からはアジアがすっぽりと抜け落ちていたことになる。
それもある意味で無理ないことだった。当時の日本の若者にとって、アジア、とりわけ東アジアと東南アジアは旅の目的地としては存在していないも同然だったからだ。
中国は入国することさえできなかったが、韓国や香港や台湾やタイなどという国々は、「オヤジたち」が女を買うため、つまり「買春」をするために旅行するところとして認識されていた。あるいは、「企業戦士たち」が日の丸を背負い、会社の名刺を持って「経済進出」するための先兵として赴くところと見なされていた。
ところが、私の買ったデリー行きの航空券が2カ所だけストップオーバー〈途中降機〉できるということを知り、たまたま選んだ都市が香港とバンコクだった。そのことが、私の旅を根本から変えることになった。
2、3日のつもりで香港に降り立った私は、そのあまりにも猥雑でエネルギッシュな街に瞬時に魅了されてしまった。
活気あふれる市場があり、いい匂いを放っている屋台が並び、裸電球もまぶしい夜店が続いている。そこを歩き、買い、食べ、冷やかす人々の群れがいる。私も彼らのその流れに身を任せ、熱に浮かされたように香港の街を歩き回り、気がつくと、1週間、また1週間と、滞在しつづけるようになっていたのだ。
私は、香港から始まったアジアの旅で、つねに驚いていた。多くの人がうごめいていることから生じる街の熱気、貧しさの中にある風景の豊かさ。アジアでは、チャイナタウンに行けば、最低限の清潔さと満足のいく料理が手に入る。華僑がいるところでは、筆談でかなりの程度まで意思の疎通が図れる。どこにでもある市場に入れば、そこでその土地のすべてを見ることができる……。
たぶん私はアジアを歩くことで旅を学んでいったのだと思う。旅を学ぶとは人を学ぶということであり、世界を学ぶということでもあった。
■アジアの旅では追い詰められることがない
その旅の一部始終は、後年『深夜特急』としてまとめられることになるが、それにささやかな意味があったとすれば、ひとつは日本の若者による「旅するアジア」の発見だったように思う。あるいはもうひとつ、エッセイストの山口文憲氏の言うように、アジアにおいても「街歩き」が旅になりうるという発見も大きかったかもしれない。
もし、現在のように中国の大部分が旅行者に開放され、自由に旅ができるようだったら、『深夜特急』の旅も、西安、かつての長安から「本物のシルクロード」を通ってパキスタンに抜けていった可能性がある。その結果、東南アジアはもちろん、インドやネパールの南アジアも省略されていただろう。すると、私の旅は大きなものを失っていたことになる。
アジア、とりわけ東南アジアでは、どこに行っても食事に困らないだけでなく、長く旅をしていても精神的に追い詰められることがなかった。多くの人がいる「気配」が心を安らかにさせてくれたし、彼らの根本的な優しさが旅を続けていく勇気を与えてくれた。
何年か前、上海の外国語大学で講演をしたことがある。そこで、『深夜特急』を日本語で読み、同じような旅をしてみたいと思ったという学生に出会った。彼によれば、3年ほど外国を旅してから帰国し、復学したのだという。中国にもそのような自由な旅をする若者が現れるようになったのかと驚かされた。
実際、ここ数十年、さまざまな土地で日本以外のアジアの若者と出会うことが多くなった。そして、そうした若者に先導されるようにして、アジアのごく普通の人たちが旅をするようになっている。
かつて、私たちが旅する土地としてのアジアを発見したように、いま、アジアの人たちが、旅する土地としての日本を発見してくれている。そして、彼らは日本を旅して驚き、感動する。かつてアジアを旅していたときに私が驚き、感動した対象が彼らにとって意外なものだったように、私たちも彼らが驚き、感動するものを知って、意表を衝かれる。まるで、合わせ鏡で自分の見えないところを見させてもらったかのように。そう、旅人とは、その土地の人々にとって、ひとつの鏡となりうる存在なのだ。
彼らにとって、日本の何が驚きであり、感動の対象であるのか。
■日本は世界の静かな中心を目指せばいい
たとえば私の知人にマカオ在住の日本人男性がいる。その妻は中国人だが、彼女が中国人の友人たちを連れて日本に遊びに来た。彼らは、日本の道路やトイレのきれいなこと、駅員をはじめとして公的な機関やそれに準ずるようなところに勤める人たちの親切なこと、さまざまな場所で出される食べ物が実にていねいに作られていることに驚きつづけていたという。とりわけ日本の果物の輝くような美しさとおいしさには驚きを通り越してあぜんとしていたという。ひとりの女性などは、桃の甘さに「これは砂糖水を注射器で注入したにちがいない」と言ってきかなかったくらいだという。
こうしたことを聞いたり見たりすることで、私たちにとって大事なことが何か逆にわかってきたりする。彼らが感動するのは、どうやら私たちが「高度経済成長」によって直接手に入れたものではないらしい。そういえば、すでに、中国や香港だけでなく、台湾にもタイにもマレーシアにもシンガポールにも高層建築群は存在しており、高速鉄道がある国も珍しくなくなっている。彼らはそういうものではなく、日本人にとってはなんでもないこと、つまり、清潔なこと、親切なこと、おいしいことといったようなものに心を奪われているらしいのだ。
日本の政治家たちは、依然として沸騰するアジアの中心にいたいと願っているらしい。それはそれで悪いことではない。しかし、アジアで最初に高度経済成長を遂げ、いまはその終焉の中にいる日本にとって、目指すものはあくまでもアジアの経済発展の中心になろうとすることではないような気がする。
かつて、日本が高度経済成長に向かおうとしていた1959年の正月の新聞に、池田勇人が「所得倍増」を打ち出す契機となった学者の論文が掲載されたことがある。だが、その数日違いの号には三島由紀夫のエッセイが載っていた。彼は、日本への祈りを込めたその原稿の末尾に、「世界の静かな中心であれ」という一文をしたためた。
もし三島由紀夫のそのメッセージを使わせてもらえるなら、経済成長を目指してひたすら驀進(ばくしん)しているかのように見えるアジア諸国にとって、日本は「アジアの静かな中心」となるべき存在のように思える。
そのために日本はどうしたらいいのか。答えはさほど簡単ではないのかもしれない。だが、アジアからやって来る「鏡としての旅人」に正面から向き合うことで、何かが見えてくるかもしれないとも思う。
スレ主韓国人
砂糖水ではなく、ヒロポンを致死量注入してそう…
この記事のコメントです。
「どんなに信用の出来る人でも、それが中国や韓国の人であったら、決して秘密を教えてはいけない。 開発した果物や野菜の種苗を渡してはいけない。」
ガセンギ.com
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Source: かんこく!韓国の反応翻訳ブログ