▲古代国家 伽耶の歴史は、西暦400年高句麗広開土大王が朝鮮半島南部の伽耶と倭の兵を攻略したことを基点に、洛東江下流地域を中心に繁栄した前期伽耶(左図)と内陸地域を中心に繁栄した後期伽耶(右図)に区分される=慶尚南道提供//ハンギョレ新聞社
「今日の慶尚南道地域を中心に繁栄した古代国家伽耶は、首露王など六兄弟が建国した六つの小さな国々で構成され、互いに連盟を結び仲が良かったが、新羅に征服された」
これが伽耶に関する一般的常識だ。しかし、各種の研究成果を総合してみる時、これは歴史的事実とは全く距離が遠い。六つの国が兄弟のように仲良くしていたというのは『三国遺事』の記録のために作られた虚構に過ぎないというのが、伽耶関連研究成果の総合結論だ。
「慶尚南道伽耶古墳群世界遺産登載推進団」は16日、『伽耶史総論』『伽耶古墳群1』『伽耶古墳群2』の三巻で構成された『伽耶古墳群研究叢書』を出した。研究叢書は「伽耶史の時期区分と空間的範囲」「伽耶古墳群の形成過程と景観の特徴」「文献で見た伽耶の対外交流」など計25章で構成され、大学・博物館・研究院など20の機関の専門家25人が一章ずつ分けて執筆した。
(中略)
韓国と日本の歴史学界の長年の論争の種である「任那日本府」について研究叢書は、倭の王権が伽耶に派遣した外交使節と定義した。任那日本府は、咸安の阿羅国に長期滞留し伽耶王らと歩調を合わせて百済と新羅に対する外交活動に参加した。阿羅国の王は彼らを通じて倭を背後勢力として確保し、百済と新羅に対抗した。
▲慶尚南道咸安郡の伽耶邑で発見された阿羅伽耶王宮跡地と推定される遺跡。阿羅伽耶は後期伽耶の中心地であった=慶尚南道提供//ハンギョレ新聞社
伽耶古墳発掘の結果、伽耶は死んだ権力者のために従属関係にあった人を強制的に殺して一緒に埋葬する殉葬を3世紀末から6世紀中葉までしていたことが確認された。古代朝鮮半島南部の殉葬は、3世紀末に造成された金官伽耶の古墳である慶尚南道金海市大成洞(テソンドン)古墳で初めて確認された。新羅で殉葬が施行されたより早い時点だ。
6世紀に造成された大伽耶古墳の慶尚北道高霊郡芝山洞(チサンドン)44号墳では、40人余りの殉葬者が確認された。これは古代朝鮮半島で確認された最大規模の殉葬事例だ。
慶尚南道伽耶古墳群世界遺産登載推進団は「今回出した研究叢書は、伽耶古墳群世界遺産登載のための基礎資料として活用するために、最近の研究成果を集約し専門性を備えつつ一般教養書水準で整理したものだ。伽耶に関連した多くの研究成果を、初めて一堂に集め整理したという点に研究叢書の価値があると見る」と明らかにした。
だが、急いで出版したために、研究叢書は所々誤字が残り、筆者どうしが使う用語も一部統一できなかった。またそれぞれ異なる研究結果を提示するなどの問題点も抱えている。850ページを超える膨大な分量の学術書籍であるのに、索引が付いていないなど、物足りなさも残る。
チェ・サンウォン記者
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/853447.html
韓国語原文入力:2018-07-16 15:14訳J.S
ソース:ハンギョレ新聞日本語版<「古代国家 伽耶、6カ国でなく12カ国以上で構成」>
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/31136.html
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Source: おもしろ韓国ニュース速報