1: しじみ ★ 2018/02/22(木) 10:42:02.77 ID:CAP_USER
信ぴょう性が高い史料とされるイエズス会宣教師のルイス・フロイスが書いた『日本史』にも、こんな記述がある。
「信長は、家康一行の接待役を命じられた光秀と、その準備について安土城の一室で密談していたが、信長は元来逆上しやすく、自らの命令に対して反対意見を言われることに堪えられない性質であったので、人々のうわさによると、信長の好みではない件で光秀が言葉を返すと信長は立ち上がり、怒りを込めて一度か二度、光秀を足蹴にした」
「うわさによると」とある以上、信長による光秀へのパワハラ行為があったと断定はできないが、本能寺の変の直前に「信長が密室で光秀に辱めを加えた」といううわさが立ったのが事実なら、重臣たちも含めて安土城内に「信長恐怖」の空気が広がっていたことは間違いないだろう。
光秀謀反の動機を光秀の怨恨とし、説得力ある説明をするには、信長を暴君に描かなければならない。実際に信長は逆上しやすく、家臣は信長を恐れていた。そこにパワハラを加えれば横暴ぶりはさらに際立つ。
光秀の頭髪が薄いことにしたのも、信長のパワハラを強調するためだろう。
江戸時代には髷がないことは武士の恥とされ、髷が結えなくなった武士は隠居するという不文律があった。若くして髪が薄くなり、まだ隠居できなかった武士は附髪をつけたが、それには藩主の許可が必要だったという。
後世の俗書は江戸時代の価値観に沿って頭髪を光秀の「弱み」とし、それを信長に執拗に責めさせることで、信長を理不尽な暴君に仕立て上げようとしたのではないか。
続きはソースで
読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20180215-OYT8T50014.html
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Source: 不思議.NET-戦国時代
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