【宮城】「蝦夷との戦争を遂行するため」 東山官衙遺跡・壇の越遺跡、都市計画を基に整備 多賀城跡調査研・古川所長「世界的にも貴重」

1: 樽悶 ★ 2018/09/11(火) 17:48:45.07 ID:CAP_USER9
奈良時代前半に朝廷が今の加美町賀美石地区に造営したとされる「東山官衙(かんが)遺跡」と、その南側にあり役人らの居住地区と推定される「壇の越遺跡」を巡る講演会が9日、同町内で開かれた。8世紀前半に「都市計画」に基づいて築かれたことを示す遺構が出土しており、講師でかつて発掘にも参加した県多賀城跡調査研究所の古川一明所長は「世界的にも貴重な遺跡。もっと多くの人に知ってもらいたい」と呼びかけた。【山田研】

古川所長によると、壇の越遺跡には「方格地割」と呼ばれる1辺が約100メートル四方の区画を作る形で道路網が整備され、確認された区画は30近く。出土品から奈良時代前半の造営と判明している。

方格地割都市が古代の加美郡に造られた理由として、古川所長は「蝦夷(えみし)との戦争を遂行するため」と指摘する。聖武天皇は724(神亀元)年に多賀城造営を始めるなど北方の蝦夷への軍事的圧力を強め、その一環として737(天平9)年、多賀城と出羽柵(秋田市)を結ぶ軍事用道路「奥羽連絡路」の建設に着手。正史「続日本紀」には「加美郡を起点とする」との記述があり、連絡路上で「国境近くの要衝の地として、加美に役所や街並みが作られたのでないか」と説明した。

南北と東西の基幹道路は幅約6メートルで、区画内の多数の柱跡から屋敷が並んでいたことが分かった。この時代に碁盤の目状の街並みが確認されているのは、都や太宰府(福岡県)にとどまり、多賀城などに先行するという。

(以下略)

全文は
https://mainichi.jp/articles/20180911/ddl/k04/040/083000c?inb=ra


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Source: 不思議.NET-日本史

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