★ 畠 山 政 長 ★

歴史
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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/22(水) 02:23:43 ID:qbJTGuGj
尾張守、弾正少弼、左衛門督、左衛門尉、勝仙院。畠山持国の弟、持富の子。
持国の養子となるも、持国に義就が生まれたために持国に追われる。
細川勝元の援助を受け、1454年(享徳三年)家督を継いだ。
政長と義就の不和は決定的となり、各地で戦った。
その後、1460年(寛正元年)には義就が将軍義政に追放されたため、政長は1465年(寛正五年)に管領職を継ぐ。

1466念(文正元年)、義就は山名持豊に迎えられ入京した頃には関係がさらに悪化。
翌年1467年(応仁元年)には管領職を突如辞され、義就との決戦を辞さずとして上御霊社にて決戦。応仁の乱の契機となったこの戦いには敗北したものの、その後は細川勝元率いる東軍について戦った。
後に三回管領職となり、応仁の乱後も1489年(延徳元年)には将軍足利義尚の死後、義材(義稙)を擁立し、畠山義就の征討をはかった。

1493年(明応二年)、義就の子義豊(基家?)が挙兵し、それに応じた細川政元や赤松政則らに攻められ河内の正覚寺にて敗死。


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Source: 不思議.NET-日本史

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