この書状は、東京大学史料編纂所に未調査のまま保管され、村井祐樹准教授が調査を進めました。
その結果、文禄4年(1595年)に豊臣秀吉の側近、木下吉隆が毛利輝元に送った書状と判断され、この中に、豊臣秀次の息子を今の奈良県にあたる大和の国主にするという秀吉の発言が記されていたということです。
秀次は、跡継ぎのいなかった秀吉の養子になったあと、関白の職についていましたが、この書状が書かれた3か月ほどあとに謹慎させられ切腹し、妻や子どもも処刑されました。
村井准教授によりますと、秀吉と秀次は、この2年前に秀吉の実子、秀頼が生まれたことをきっかけに不仲になったというのが通説ですが、最近は、秀次の謹慎の直前まで関係が悪化していなかったとする研究もあるということです。
村井准教授は「豊臣家に人がいなくなってしまうと滅亡につながってしまうので、秀吉は簡単に秀次一家を潰そうとはしていなかったのではないか。京都に次いで大切な大和の地を豊臣家の一員に任せようと考えていたことも分かり、今回の書状はかなり重要な、意味のある発見だ」と指摘しています。
■書状に「母者」 関係の近さ うかがわせる
今回の調査では、秀吉が自分の母親のことを「母者」と記した珍しい書状も確認されました。
この書状は、花押や印はないものの、紙の質が当時のものと一致することなどから、天正13年、西暦の1585年に秀吉が弟の秀長に宛てたものと判断されました。
本能寺の変のあと、小牧・長久手の戦いの直後に書かれ、敵方だった織田信長の次男、信雄が夫人たちを大坂に連れてくると記したうえで、秀長に「お前の家を修築して滞在させておけ」と命じています。
そのうえで「もし調度品がそろっていなければ、一時的に『母者』のところに滞在させるように」とも記しています。
調査にあたった村井准教授によりますと、秀吉が母親のことを「母者」と表現している書状が見つかったのは今回が初めてで、母や弟との関係の近さがうかがえるとしています。
村井准教授は「秀吉が天下を取る前の、まだいろいろなことが官僚化されていないなかで、自分の手回りでやりくりしている様子がうかがえる。秀吉の私的な部分がうかがえる文書で、うちうちの書状はあまり残らないので、そういった意味でも珍しく貴重だ」と話しています。
2019年8月19日 5時10分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190819/k10012040091000.html?utm_int=all_side_ranking-social_002
続きを読む
Source: 不思議.NET-戦国時代
コメント