百済文明が作った日本最高の文化 「アンスク文化」

NAVER知識in 質問主韓国人

「飛鳥(アスカ)」という名称、韓半島から日本に渡った人々が、到着した土地を「アンスク(安宿)」と呼んだことに由来する。朝鮮半島南端の海岸から出発して、長い航海の冒険の最後に定着するほどの土地を訪れた安堵感を感じた韓半島の人々は静かに到着したという意味でアンスクという名前を付けた。アンスクという言葉は時間が経つにつれてアスカという言葉変わったのだ。


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1)扶餘郡に似たアスカ
日本で車に乗って走ると突然韓国と似たような景色に出会う。
アスカが扶餘郡に似てると言うのは誇張ではない

権力闘争で勝利した蘇我馬子は587年に百済へ使節を送って社寺を建築するために、僧侶や建築技術者を派遣してほしいと要請した。
当時、日本は高句麗、百済、新羅の三国の助けをすべて受けたが、飛鳥文化は特に百済を中心に行われた。百済は次の年に慧聡など僧侶と大工、学者、瓦を焼く技術者などを日本に送った。 当時としては最高の技術を持つ人が日本に派遣されたことだ。 朝鮮半島から渡って来た人たちがお寺を建てる時は、すでに日本に移住していた韓半島人の2、3世の子孫が百済の先進技術を学ぶために集まった。

日本初の寺院の飛鳥寺は、こうして誕生した。 当時、仏教を守っていた僧侶は百済の慧聡と高句麗の恵慈だったが、恵慈は聖徳太子の師だった。

聖徳太子は四天王寺、法隆寺など7つの寺院を立てた。他の豪族も競って自分の先祖を祭った氏寺を立てた。624年聖徳太子が30年政権を握っている間は社寺が46個建てられ、居住する僧侶は816人、尼は569人もあった。仏教関係技術者たちだけでなく、翻訳士、博士、悪人など、多くの人が百済を中心として、韓半島から入ってきた。

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飛鳥時代文化遺産の白眉は広隆寺にある弥勒菩薩半跏像は日本の国宝1号に指定されているほど日本人の自負心が盛り込まれた遺物だ。しかしこの遺物の材質が韓国だけで育つ松が赤松であることが判明し、日本史学界に大きな衝撃を与えた。実際にこの仏像は韓国の国立中央博物館が所蔵している金銅弥勒菩薩半跏思惟像と双子のように似ている。二作品の材質は異なるが、韓半島で弥勒菩薩の製作が絶頂に達した7世紀初頭に,入神の域に達した一芸術家の手に作られたものと推定される。

飛鳥文化は百済を中心に築かれた文化として、韓国文化がそのまま込められていても過言ではない。飛鳥文化は日本文化の中で最高の文化と評価されている。仏像と社員たちを通じて自然に膝がひざを折ってなる神聖さの世界を発見することから、衝撃を受けるようになる。
一体あんな作品を作った人たちはどのような内面を持ったのだろうか?そのような人間を育てた韓半島地域は、いったい、どんな風土だったのか? 私たちが生まれたところ、私たちを育ててくれたところ、あまりにも慣れた世界であるため、まともに視線を送っていなかったところ…その韓国文化のルーツを飛鳥文化で発見することになる。そして飛鳥文化は韓国文化を心から尊敬させる力を持っている。

飛鳥文化は華々しかった。大王の居所であっても板で作った屋根に藁を積む程度だった当時、日本建築文化のレベルでは想像もできない壮大で華麗な社寺が建てられて芸術品が作られた。百済を中心にした韓半島で大挙移住した技術者や芸術家たちによって飛鳥文化は華やかな花を咲かせた。最初から韓半島から移植されたという表現が適当ほどだ。日本は仏教を受け入れ、それに付いてくる先進文明を吸収し、大きな世界に進むことができた。 飛鳥文化は日本が成熟した古代国家に発展していく過程で必ず通らなければならない段階を満たしてくれた。日本は、華麗で多様な文化を積み上げながら、東アジアの国際舞台に進入していった。

Source: かんこく!韓国の反応翻訳ブログ