日本は敗戦するや否やすぐ慰安婦を募集しました
降伏宣言から二日後の8月17日「日本軍の大元帥」である日王から日本の陸海軍は武器を捨ててこれ以上、抵抗するなという武装解除命令を一言に日本の軍隊はそのまま解散した。日本の右派の学者たちは、裕仁日王は戦争開始を望まず、一日も早く戦争を終わらせる為に努力したと主張しているが、実際には裕仁・日本軍部首脳部の戦後処理の主な関心事は「天皇制守護」であり、連合軍の占領政策に順応したのも徹底的にそれを守る為の事だったというのが日本の学者の大まかな見解だ。
過去の大本営(日本軍の戦争遂行指導本部)の陸海軍首脳部は、占領軍が日本本土に駐留しに来た時、日本軍を解散しなければ何が起きるか分からないとし、事前に彼らをすべて武装解除させ故郷へ送り返したのだ。
そして翌日、日本はもう一度、驚くべき変身を試みた。
ノンフィクション作家の半藤一利は、70万冊以上販売されたベストセラー著書「昭和史」(昭和は裕仁日王の年号)で「変身の良い例(実は最も悪い例だが)を一つ紹介する」としながら、連合軍の本土進駐を迎え、内務省が18日に発表した策略を例に挙げた。
「戦争に敗北した場合、女性が米国人の妾になる覚悟をしておけという数えきれない程入ってきた悪質な宣伝対策を指導層が真剣に悩んだようです。良家のお嬢さんにどんな事が起きるか分からないので、その防波堤の役割をする為に進駐軍にサービスを提供するいわゆる特殊慰安施設を作る事にしました。そして急いで特殊慰安施設協会(RAA)が作られ、すぐに慰安婦を募集します。」
実際、日本内務省の橋本政実警保局長は、18日、各府、県の長官(当時は府と県の知事を長官と指す)に占領軍の為のサービスガールを募集するという指令を下し、その命令を受けた警察署長が各種手段を使って「国家の為に売春を斡旋してほしい」とお願いして回った。
半藤は「売春を取り締まらなければならない位置にある警察が、売春をしてほしいとお願いして歩き回った事は、日本では初めて起きた事だ」とし「基本に敷かれているのは勝利者に迎合する心で、これ以上、卑屈で情けない事はないようだ。敗北した人間の情けない姿勢が一瞬にして露わになったという事ができる」と書いた。
特殊慰安施設は、1946年1月21日、当時フランクリン・ルーズベルト大統領夫人の反対と性病蔓延などの理由で、占領軍司令部が廃止命令を受ける時まで東京で30ヶ所以上、日本全域で7万人余りの女性が従事したという。
日本当局は、最初は仕事の内容を詳しく知らせないまま「新日本女性募集、宿舎、衣服、食料品すべて支給」という内容のビラを銀座など歓楽街に張り出したり、新聞広告を出して女性たちを募集した。
Source: かんこく!韓国の反応翻訳ブログ