第2次大戦敗戦後の日本女性、ソ連軍の性接待に追いやられ
第2次大戦敗戦後、満州に残っていた日本の「満蒙開拓団」の子供、女性がソ連軍の性接待に追い込まれたという証言が出た。満蒙開拓団は、日本政府が1936年から国策として満州開拓政策を推進するため満州地域に移住した日本人だ。
満州事変当時、満州に進撃した日本関東軍。 [日本の太平洋戦争研究会]
朝日新聞は15日、「開拓団の性接待告白…なかったことにすることはできない。」というタイトルの記事で、このような証言を報告した。朝日新聞によると、日本岐阜県の旧黒川村(現・白川町)から満州に移住した開拓団の女性に敗戦直後開拓団の幹部が、ソ連軍性接待を指示したという。
今月10日に岐阜市市民会館で開かれた証言集会に出た佐藤ハルエさん(93及び従前当時20歳)は、「当時の幹部が「夫が軍隊に行った婦人たちにはお願いすることができないので、あなたが犠牲になってくれ」と言った。」と打ち明けた。
黒川村の満蒙開拓団は41年以降、600人が中国の吉林省の地域に移住した。このように、中国に行った日本人が、全体で27万人に達したが、敗戦当時日本の関東軍主力が先に撤退することによって、彼らの避難などが問題になった。実際に、日本政府の帰国支援が遅れ、現地住民と旧ソ連軍によって暴行と略奪にあうケースが頻繁だった。黒川開拓団も敗戦後、現地住民の暴行や略奪に苦しめられ近所の他の開拓団の住民は集団自決した。
1931年9月19日未明、日本関東軍が一方的に張学良軍を攻撃して掌握した後歓呼する姿。満州事変の出発点となったこの事件の後、朝鮮銀行は満州で軍資金を扱いながら営業利益を増やすことができた。そして1925年以降続いていた緊縮経営から脱した。
当時黒川開拓団の幹部が近くの旧ソ連軍部隊に村の治安維持をお願いしたという。当時17~21歳の女性15人ほどを旧ソ連軍の性接待に出したのである。これは45年9月~11月まで続いた。いくつかは、中国軍を催す為でもあった。
当時17歳だった被害女性(90)は、最初は酒の席を催すと思って出て行ったが、布団がたくさん敷かれた仕切り板もない部屋で、他の女性と一緒に暴行されたと発表した。彼女は逃げようとすると捕えられて殴られたという。彼女が書き写した幹部のメモの中に「女性を捧げ、数百の命を守る」などの内容がある。この被害女性は、自分を性接待に追いやった大人を許すことができず、日本に帰国した後、故郷である黒川を2回訪れた。
当時21歳だった安江佳子(2016年91歳死亡)は、2013年の講演で「性接待のさせられるようになった女性たちは泣き、町の高齢者は「どうせ日本はだめだから一緒に死のう」という意見を出した。しかし、開拓団副団長が「開拓団を守るか、自滅するか、あなたにかかっている。あなた方には力がある」と説得した」と証言した。性接待に追い込まれた女性の中で最も年上だった佳子は友人と「詩集ができないようになれば一緒に人形店をしながら生きよう」と話を交わした後、性接待を受け入れたという。
ハルビンに進出する日本軍。関東軍は若樹内閣の戦争拡大不可方針をあざ笑うかのようにハルビンに進出した。
開拓団には、医務室が設けられた。性病と妊娠を防ぐために希釈した消毒薬で女性の体内を拭いた。消毒作業を助けた鈴村久子(89)は、当時16歳で性接待に選出されるところだったが佳子が交渉に出て性接待を免れることができた。
開拓団は46年9月に帰国した。最終的に約400人が帰ってきた。鈴村は「帰ってきたのは佳子姉のおかげだ。」と語った。鈴村は子供を持たない佳子に自分の次男を養子に送った。
証言によると、接待を強要された女性のうち4人が、性感染症と発疹チフスなどで現場で死亡した。帰国後、長期入院した人もいて、性接待の噂が広まり、独身で過ごした人もいるという。被害女性のほとんどは、黒川村を去ったと伝えられる。
中央日報
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Source: かんこく!韓国の反応翻訳ブログ