「日帝による鉄道敷設は開発にして収奪」
「当時は釜山発京城行きが下り線だった」
日本、北京、果ては欧州ともつながっていた国際交通都市・京城
「20世紀前半、ソウル(京城)は東アジア鉄道ネットワークのハブ(中心地)だった。日本列島-韓半島(朝鮮半島)-満州-ユーラシア大陸を最短距離で連結するための鉄道が韓半島を貫通した。近代のソウルは鉄道が作った都市にほかならなかったが、鉄道の歴史はすなわち収奪された韓国人の血史でもあった」
東北アジア歴史財団の理事長も務めた歴史学者の鄭在貞(チョン・ジェジョン)ソウル市立大学名誉教授(67)が、新たな歴史書『鉄道と近代ソウル』(国学資料院刊)を出版した。5年にわたり韓国と日本の資料およそ1000点を集めて研究した成果で、600ページにもなる。
1979年に鄭教授が日本留学へ出掛けた際、日本の歴史学界では植民地支配を美化し、「日本が韓国に鉄道を敷いてやったではないか」
という見方が広く存在していた。「実にとんでもないことだった。鉄道敷設の過程で韓国がどれほど多くの労働力と土地を収奪されたか…」。その後、近現代史全般を幅広く研究した鄭教授は、単行本『日帝侵略と韓国鉄道 1894-1945』(1999)など鉄道史研究にも関心を持ち続けた。
今回の著書で鄭教授は、ソウルを中心に近代鉄道の歴史を振り返っている。ソウルは京仁線、京釜線、京義線、京元線、京春線、京慶線(中央線)など、「京」の字が付く韓国の幹線鉄道網の始発点にして終着点だった。さらに、北東アジアの直通国際列車が奉天(現在の瀋陽)を経て北京へ、ハルビンとシベリア鉄道を経て欧州につながる、四方八方とつながった国際交通都市でもあった。「日本の下関からユーラシア大陸の反対側にあるエストニアのタリンまで行く、1940年に発行された乗車券の写真がある。その路線は当然、ソウルを経由しなければならなかった。ソウルで、パリやモスクワまで行く列車の時刻表を買うことができた」
鄭教授は「鉄道は、一言でいえば利器であると同時に凶器だった」と語った。1899年から1945年までの間、日本は総延長6400キロに及ぶ鉄道を韓半島に敷設し、その鉄道網を通して支配力を強化・拡大し、物資を持ち去った。「徹底して日本帝国主義の利益のために作られた鉄道路線は、『侵略』と『開発』、『収奪』と『近代』という両方の属性を併せ持っていた」という。
鉄道は、ソウル市民が近代文物を受け入れるルートでもあった。「1日を12の単位に分けていた時間概念は、汽車に乗り遅れることのないよう分・秒単位に変わらなければならず、また汽車は老若男女が同じ空間に混在する、社会的に開放された場所だった」。独立運動でも大きな役割を果たしたのが鉄道だった。三・一運動は、鉄道路線を介して朝鮮全土に広がっていった。一方、同じ料金を払っても日本人より一等級下の扱いを受けるという、差別と抑圧の空間でもあった。植民地時代にあっては、釜山から京城(現在のソウル)に向かう路線が「下り」だったが、これは「帝国の首都たる東京から植民地の京城に下っていくルート」という意味だった。
あまり知られていない話も多い。大日本帝国は、鉄道を敷きやすい地形を選んで京釜線のルートを決めたため、ソウル-大田間では慶尚道・全羅道に向かう交通量が合わさり、ボトルネック現象が起きた。この問題は現在まで続いている。鄭教授は「南北の鉄道連結、そして1940年代に既にシステムを備えていた東アジア鉄道網の回復は、政治的利害関係とは関係なく将来必ず行われるべきこと」と語った。鉄道によって連結されたとき、ソウルは東アジアの拠点都市として真価を発揮したが、その鉄路に血のにじむ歴史があったという事実も忘れてはならないと言う。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2018/09/07/2018090701782_1.html
鉄道爆破して作り直したら?
もう戦後73年だぞ。何やってたの?
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Source: おもしろ韓国ニュース速報