[フィレンツェを斜めに見る]四度目のフィレンツェ訪問、私が経験した「スタンダール・シンドローム」
≪中略≫
旭日旗と南部連合旗、私たちは驚愕した
▲遊園地祭りのために大規模な空き地に一時的に建てられたところである。 2014年10月
中心から外れた地元の居住地域らしく、観光客はほとんど見えず、特に東洋人は私たちしかいないようだった。遊園地の中に入って興味深くあちこち見物していたところ、バンパーカー乗り場を発見した。子供たちが楽しくバンパーカーを運転していたが、バンパーカーごとに世界中の旗がかかっていた。
ところが、目を引くバンパーカーが一台あった。そのバンパーカーには日本の帝国主義を象徴する旭日旗がかかっていた。別のバンパーカーでは、米国の南北戦争時に使用した南部連合旗も見えた。南部連合旗は人種差別の象徴とされて掲揚を禁止されたが、最近、極右主義者たちによって再び広がっている旗である。
旭日旗と南部連合旗を見た私たちは驚愕するしかなかった。しかし、そこにいる誰もが気にしていないようだった。子供たちはバンパーカーの運転を楽しみ、親や友人は手を振った。
▲旭日旗を付けたバンパーカーの後には南部連合旗が見える。 2014年10月
フィレンツェ大聖堂をはじめ、フィレンツェの中心部には、常に多くの観光客で込み合う。フィレンツェ市は観光客たちに自分たちの遺跡を美しく見せるために心血を傾ける。しかし、少し外れると旭日旗を吊るして喜ぶ人々がいる。
旭日旗の意味が分からなくてそうしたのかもしれないが、私たちの国の遊園地で、ナチスのハーケンクロイツ旗をつけたらどう思う?過去、レオナルド・ブルーニが賛美してやまなかったフィレンツェの市民精神は、このようなものなのか?建築物と芸術品を過去の姿のまま保存するために努力して、市民精神も過去にとどまってしまったのだろうか?
もちろん私が経験した一つのことを一般化することは飛躍である可能性があるということを認めている。しかし、スタンダールがフィレンツェの芸術作品から衝撃を受けたように、フィレンツェで出会った旭日旗は私にとって大きな衝撃で、多くのことを考えさせた。私が美しい一面だけを見ていたという悟りもあった。常識的にどんな都市や人も良い面ばかりあるわけではない。
このことは、フィレンツェを少し「斜めに」眺めるきっかけの一つとなった。斜めに眺めているとフィレンツェは素晴らしい文学者たちと天才芸術家、そしてそれらを後援した金持ちだけでなく、搾取され、抑圧された労働者たちと女性たちもそこにいたことを改めて気づかされた。
2017年末、四度目にフィレンツェを訪れた際、フィレンツェ大聖堂のドームに向かう途中で目に見える変化があった。壁とクーポラにぎっしりとあった落書きが、きれいに消されていたのである。そして落書きをするなという標識がついていた。落書きがなくなってきれいになったように、フィレンツェで旭日旗に出会うことがなくなればよい。
上辺だけの美しさを整えることだけに市民の精神は成長したのか?この質問はフィレンツェだけでなく、私たちにも同様に当てはまるものだ。私たちは外面の成長ほど内面の成熟度に歩調を合わせているのか?フィレンツェの旭日旗のようなものが私たちにはないと断言することはできないようだ。
▲きれいになった壁に落書きをするなという標識が付いている。 2017年12月
ソース:オーマイニュース 18.03.12 22:35(韓国語)
http://www.ohmynews.com/NWS_Web/View/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0002411002&CMPT_CD=C1500_mini
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Source: おもしろ韓国ニュース速報