1: 2018/10/27(土) 09:16:51.79 ID:CAP_USER

12歳の少女のからだに刻まれた済州4・3の記憶

10/27(土) 7:16配信
ハンギョレ新聞

12歳の時の拷問の記憶を語るチョン・スンヒさん=ホ・ホジュン記者

[済州4・3企画 椿に尋ねる 2部(3)] 江汀マウル(村)の12歳の少女に加えられた 「西北青年会」出身軍人の拷問 3歳上の姉は、法還支署に連行され過酷な拷問受け 兄は行方不明…母は姉妹の前で銃殺され 「猫を見ただけでその時の情景を思い出し今もからだが震える」 多くの住民が犠牲になった江汀マウルは海軍基地で苦痛

「コパン(小規模食糧倉庫)にある穀物を食べようとしてネズミが行き来するじゃない。それを見た猫が私の背中を踏んで“ダダダッ”と追いかけて。電気も点いていないコパンにいるだけでも怖いのに、私のからだの上でネズミと猫が飛び回ることがもっと恐かった。一人身を縮めてブルブル震えていました」

 今月20日、チョン・スンヒさん(82)に会うため済州オルレ(小道)7コースにある西帰浦市(ソギポシ)江汀マウルを訪れた。5月に続き2回目の訪問だった。チョンさんは、中庭の木枝を整理していた。済州(チェジュ)4・3が起きた1948年、当時12歳の少女だったチョンさんは、70年が過ぎた今でも恐ろしい拷問の記憶を振り払えずにいた。下の兄のチョン・ドンホさん(当時17歳)を捜して家を包囲した軍人たちが、下の姉を近隣の法還(ポプファン)支署に、チョンさんを江汀小学校に連れて行った。チョンさんは、学校の前のわらぶき屋根の家のコパンに拘禁された。10坪もないわらぶきの家の居間には、西北青年会で構成された軍人が泊まっていて、別の部屋は拷問室になっていた。彼らは「兄を匿ってお前たち姉妹が食べ物を運んでいるのを見た人がいる」として、チョンさんに残忍な苦痛を加えた。

12歳の少女に水拷問・電気拷問まで

 「丈夫な紐で足と腰、胸と腕とを束縛し、扉に縛り付けて。そして逆さに立てて地面にドンドンと打ち付ける。頭がどうなると思う?」。チョンさんが自身の頭頂部をなでながら「その時、髪が抜けて、ここがすっかり擦り剥けてしまった」と話した。彼らは、ヤカンに入れた水をチョンさんの鼻と口に無理やり注ぎもした。

 「水を吸い込めば、これで死ぬんだなと思うほど息が詰まった。正直に言えと言って、鉄串を歯の間に刺し入れて、強制的に口を開かせた。その時以来、ずっと歯が2本無いまま生きてきた」。歯を見せながら当時の姿を再現するチョンさんの顔には深い皺が刻まれていた。

 「それはまだマシな方。水を飲まされて腹が膨れると、腹をドンドンと押す。ぐっと息が止まる。するとバケツに水を汲んできて浴びせる。“ビクッ”として目が覚める」

 軍人は幼い少女のからだに電気拷問まで加えた。「それもまだマシだった。竹の棒に金具をぶら下げて、脚をブスッブスッと刺した。すると“ジューッジュー”と音がした。脚から血膿が流れ出た。胸や肩も刺して、腫れあがってしまった」。チョンさんは「それはまだマシ」という言葉を繰り返した。ますますあくどい拷問が続いたという意味だ。

 1948年冬、済州には珍しく大雪が降った。拷問で痛めつけられたチョンさんが寒風が吹き込むコパンの隙間から眺めた外の景色は一面白い雪に覆われていた。寒気がチョンさんを一層苦しめた。拷問を加えた彼らは、寒い冬にもかかわらずチョンさんを濡れた薄い服で放置した。食べ物は一日に一回投げられる子供の掌ほどの握り飯だけだった。法還支署に連行された3歳年上の姉も同じような拷問に遭った。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181027-00031942-hankyoreh-kr

2: 2018/10/27(土) 09:17:32.48 ID:CAP_USER

死の淵からようやく生きて戻ってきたが…

 チョンさん姉妹が連行されたのは、1948年11月21日に近所の中文里(チュンムンリ)の道路整備作業に動員された中学生の兄が西北青年会の軍人に殴打され銃で撃たれた後に行方不明になった直後だった。チョンさんは「兄と同じような年頃の5人がトラックに乗せられて、一人の子どもがこんな車に乗るのは初めてだと言って笑うと、笑ったなと言って銃尻で殴ったと言う。うちの兄が『子どもが笑って何が悪い』と制止すると、軍人数人が『なんだ、この野郎』と言って兄を銃尻で滅多打ちにしたと。中文のある川辺に着いて、兄が橋の下に飛び降りると、軍人が弾丸が無くなるまで銃を撃ったと言う。その後、兄の姿は見ていない」

 チョンさんは、兄と一緒にトラックに乗った“笑った子ども”が、後日訪ねてきて「自分の代わりに死んだ」と言って、その時の状況が分かったと話した。

 チョンさんは「ある住民が、私たち姉妹が兄を匿って食べ物を運んでいると嘘の告げ口をしたせいで、あの拷問に遭った」と話した。チョンさんは、軍人に告げ口した住民との対面を要求した。ひどい拷問にもかかわらず兄の行方を言わないので、軍人はその住民をわらぶきの家に呼んだ。チョンさんは彼に駆け寄って「兄に会いたい。どこにいるのか。教えてほしい」と泣き叫んだ。軍人は「子どもが嘘をついているようには見えない。正直に言え」と言って殴ると、彼は「見間違ったようだ」と言ったという。しばらくしてチョンさん姉妹は解放されて自宅に帰ったが、西北青年会の軍人たちは姉妹を「暴徒のガキ」に名指しして動態を監視した。数日後の1948年12月16日、西北青年会の軍人たちは、チョンさんの母親とチョンさん姉妹を含めて多くの住民たちを学校の西側のメモル山に引き立てた。その時、近づいてきたある軍人が「子どもたちには罪がない。やりすぎではないか」と言って、チョンさん姉妹の手を握り出て来させた。そのようにして死の淵から生還した。

拷問の後遺症で中断した海女生活

 「監禁されて拷問されている時も、お母さんがとても恋しかった」というチョンさんにとって、母親(当時54歳)との縁もその日が最後だった。「暴徒の家族だと言って人を立たせた。目を開けてよく見ろと言って銃を撃った。私たちの目の前でお母さんは亡くなった」。チョンさんの家から50メートルも離れていないメモル山は、草が生い茂っていた。

 姉の受けた苦痛も大きかった。チョンさんは「姉は私より3歳年上なので、私以上に執拗に拷問された。私と口裏を合わせるのではないかと思われて、他の所に連れて行かれた姉は、その後もあの時の話をすれば誰かが捕まえに来ると思って、話すことができなかった」と回想した。姉は、チョンさんに向かってずっと後になってから「あらゆる目に遭った」とだけ言って、他には何も話さなかった。

3: 2018/10/27(土) 09:17:50.20 ID:CAP_USER

 その後のチョンさんの暮らしは厳しいものだった。二十歳の時「他の人に後ろ指を指されないように生きよう」と思って、軍から除隊したばかりの町内の青年と結婚して、懸命に生きた。17歳の時に覚えた海女漁で家も建てた。海女漁で獲った海産物を背負って市場で売って、野菜や卵を売るなど、あらゆる仕事をした。しかし、拷問の後遺症で水に入ると全身がずきずきと痛み、上がれば痙攣がひどく、海女の暮らしも長くは続けられなかった。右目が見えなくなり二回も手術し、左目も一回手術した。

 江汀小学校の入口には、記念碑が3本立っている。そのうちの1本は、1964年2月に住民たちが立てた「陸軍少佐ソ・ボンホ記念碑」だ。碑の裏面には、1948年の学校建築の時に支援したと記されている。済州道教育庁が出した『学校が生んだ私たちの故郷の話』(2014)には「当時、済州地区戒厳司令部中文派遣隊長だったソ・ボンホ少尉が、(教室新築事業の困難を)知って部下の兵士たちを動員し警備させたために、漢拏山(ハルラサン)の木を切って来ることができた」と記されている。しかしその年の冬、江汀マウルでは多くの住民が軍人の犠牲になった。江汀マウル会が出した『江汀郷土誌』(1996)で名前が載っている犠牲者だけで94人いる。メモル山など三カ所だけで59人が集団虐殺された。実際の犠牲者はこれよりはるかに多いだろうと推定される。

 水とコメが豊かで「済州でも一番」という意味の「(第)一江汀」と呼ばれた江汀マウルの住民は、4・3の旋風が吹き荒れてから60年余りの歳月が流れた後、済州海軍基地の建設で再び葛藤の旋風にまきこまれた。

「夜、横になればあいつらを思い出す」

 5月26日、チョンさんは済州4・3平和財団が授与する「済州4・3父母賞」を受賞した。しかしチョンさんは、4・3後遺障害者には認定されなかった。障害認証を受けるために診断書の発給を受けようと病院に行ったが、傷が70年前にできたということを認められないと言われ発行されなかったからだ。

「夜、横になれば今でも幼い時に体験した1カ月のことを思い出す。目を瞑ればネズミと猫がダダダッと駆け回ったことが思い出されて、あいつらのことも思い出す。今でも猫が中庭をうろういているとぞっとして、水をかけてしまう。食べ物も外には置かないようにしている。猫が来るのが怖いから」

ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

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Source: おもしろ韓国ニュース速報