2015年台湾学者クォ・チュウォン(郭秋〓)は台湾人の韓国人に対する印象を調査した結果、強い民族性、愛国、勝負欲、積極性、体面重視などのキーワードが出てきた。2017年、彼が再び調査した結果、酒、体面重視、整形、保守的、団結、急な性格、排他的、利己的、勝負欲などの返事が出てきた。
彼は「韓流熱風」に包まれた台湾で全般的には韓国を嫌う現象が現れる理由について「個人として韓流が好きでも集団の流れにより集団の反韓に従わなければならないため」と分析した。
特に反韓感情が激しい世代は40~50代という。それなら台湾に反韓感情が広がった理由は何だろうか。複合的原因がいろいろからまっていると見られるが、最も大きな理由は感謝の気持ちを知らないことに対する一種の背信と見られる。台湾人と対話してみれば「1992年、韓国-台湾断交」に関する話がしばしば出る。
1949年、中華民国だった時期に修交して長い間、友好国として過ごした韓国が突然断交を通知し、その過程が道義的でなかったということだ。これについて韓国人の多数は「『一つの中国』原則により、中国の圧迫が厳しかった」とか「台湾との断交がドミノのようになされた局面で、むしろ信義を長く守った方だ」と受け返す。
莫大な外貨準備高を土台に他国と友好的外交関係を維持した台湾だったが、それまで共産主義国家とだけ交流した中国が1978年、経済現代化を旗じるしに改革開放政策を始め、国際社会に出てくる過程で急激に力を失った。多くの国家は「中国か台湾か」を選択しなければならなかったし、大多数の国家は修交と通商を通じて「規模の経済」を実現できる中国を選んだ。韓国もやはりこのような流れにより台湾と断交して「非公式な最高の関係」に切り替えた。
わずか何カ月か前の同年5~6月にもドミニカ、パナマなどが続けて台湾と断交して中国と修交した。もう台湾と公式外交関係を結んだ国は20にもならない。しかし、この様な過程で韓国に特にさびしい感情を感じたのはそれまでの友好感がだいぶ大きかったし、政治的同盟が力強かったためだ。
多くの韓国人は知らないが、台湾(中国国民党)は大韓民国臨時政府を物心両面で支援した。当時、大韓帝国のように日本帝国の植民支配を受けていた台湾は1932年、尹奉吉(ユン・ボンギル)義士の上海虹口公園義挙(4・29義挙)について深く感銘受け、本格的に大韓民国臨時政府を通じた抗日独立運動支援に出た。台湾初代総統、蒋介石は義挙について「中国100万大軍も出来なかったことを朝鮮青年がやり遂げた」と讃えた。
しかし、他国の亡命政府支援は容易ではなかったので国際社会の目を避けて「中国国民党」や蒋介石個人の名義、あるいは彼の夫人スン・メイリン女史の名義で支援金を支給した。白凡金九(キム・グ)先生の秘書室長だったミン・ピロ先生は「私たちの対中国外交は「求吃的外交(貰う外交)だ」と言って、家族の生活費や事務室維持費用などを全部台湾の支援に頼ったと明らかにしたことがある。両国の独立後も韓国と台湾はどちらも共産陣営との戦いに突入する境遇に処した。
(中略)
>>2-5あたりに続く
ソース:マネー・トゥデー(韓国語) 「どうしても勝ちたい」…韓国が憎らしい国http://news.mt.co.kr/mtview.php?no=2018080911101164489
中華民国は「反共」の次元で似たような状況に置かれた韓国を1949年1月に米国に次いで世界で2番目に国として承認し、早めに公式外交関係を樹立した。このような過程を経て、台湾は抗日・反共同盟に編入され両国の関係が変わることがない強固なものと認知されるようになった。
ここで、このような「感謝の気持ちを知らない国、韓国」というイメージがあるのは日帝植民地を眺める視点の差も寄与したようだ。台湾の歴史教科書と中国・韓国の教科書の間には日帝植民地時代を眺める視点の差が大きい。三カ所の歴史教科書全てに日本植民地期間の収奪と抑圧があり、これに伴う抵抗が強かったと記述されている。しかし、台湾は日帝が「近代化に寄与した」と記述する。
実際に台湾の多数(80~85%)を占める内省人(中国の明・清時期に移住した漢族や先住民など生え抜き)の中には日帝植民地の時よりはその後、外省人(1949年国民党が本土で敗走するとすぐに国民党政府とともに移住した大陸人)らが台湾に入ってきて内省人を圧迫したと考え、この時期をより一層苦痛に感じる人が少なくない。このために私たちより日本に対する反感が少ない方だ。
その他にも「韓国に対する劣等感」も台湾の反韓感情の原因に選ばれる。
(後略)
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Source: おもしろ韓国ニュース速報