朝鮮通信使から見た18世紀の日本

日本人たちは伝統的に生命を軽く考え、死を恐れないものと認識する。
これは正義感を崇めることもなく、生まれつきの性質がそうだという訳では無い。日本では中世以降、戦争が日常的に起きており、各地方の太守たちは、軍事を育成するのに血眼になって平民たちの血を絞り取った。軍人は年中給与を受け、兵役以外の負担が無かった。

民は軍人にならなくては生活の目途が立たない。そして、軍人になった後は枯れずに生きる事が可能かはすべて太守の手にかかっているようになって、一度臆病者との噂が立てば、社会から葬り去られる。顔に刃傷や、窓に傷があれば、勇敢な男として禄高を受ける。

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朝鮮後期の文章家であり、1719年(粛宗45年)朝鮮通信使の製述官(製述官=詩文と学問の討論を担当していた官吏)として日本に行ってきた申維翰(シン・ユハン)は日本での経験を整理した「海遊録」で「日本人が戦いで無謀に襲い掛かるのは、自分が楽になるためにすぎない」と記述した。本は地理、因習、風俗、制度などについて、著者が日本で見て聞い内容を記述した見聞録であり、文学性に優れる事はもちろん、現代に至るまで紀行文学の白眉と評価される。

18世紀、日本には武士、農民、工人、商人など四種類の民があった。武士は太守にのみ服従するだけで一番楽だ。その他僧侶、医師、儒学者がいるが、このうちの儒学者の身分が最も低い。過去の試験を受けて官職に出ることができないので、各藩で書類を作る仕事をしたり、武士に依託して生計を維持しなければならなかった。

しかし学問と芸術に対する渇望は高かった。朝鮮通信使には、文章や絵の依頼が殺到した。申維翰も同様だった。 彼は本で「毎日詩を書いてくれとせがむ日本人たちに振り回されて憂うつで苦しい心情を抑えることができなかった」と吐露した。要請は、未明まで続いた。彼は苦しい心情をなだめるために、日本人通訳官と護衛兵を連れて外を歩いた。

著者にとって日本の猥褻な風俗は衝撃的だった。申維翰は「売春街の娼婦たちが化粧して容姿をきれいに飾って卑猥にふるまう形態を知るようになったが、あまりにも最低と思って口にすることもなかった」と嘆いた。男娼の風潮についても唖然としてしまう。「十三、四歳から二十八歳までの美男子たちが芳しい油を髪に塗って眉を整え、そして白粉を塗って色とりどりの模様を刺繍した服を着ていれば美しい一輪の花のようだった。王族と貴族はもちろん、富裕な商人に至るまでこのような男娼に財物を投じない者は無く、昼夜を問わず必ずともにし、男娼の恋人に嫉妬し、殺しまでした。「申維翰は日本の遊廓の姿に衝撃を受けたが、外国の風俗を見て眉を顰めるのには警戒しなければならないとし、これを事実的に描写した数作の詩を作って一緒に掲載した。 その中の一本を紹介すると、次の通りである。

「もしかしたら、こんなに赤裸々にも…郎君が抱いた事を絵にするなら、恥知らない郎君に感動して絵と比較しながら楽しむのです」
技術を崇める文化は高く評価した。彼は「家と家を建てる材料は一寸の誤差もなしに規格化されており、家を建てる際には廊下や台所、浴室などをした屋根に配置し、建物周りは不思議にできた岩と竹や有名な花が取り囲んでいる。女性らが織った絹は非常に精密で軽い上、草花などもそのまま残した法がなくあらゆる形に整えている」とした。

豊臣秀吉が都に定めた大阪を見て天下の最高都市だと褒め称えた。まっすぐに道がよく整備されていて道には塵一つない清潔た。橋は200個余り、寺は300個余りにもなっており、家臣の良い家はその二倍となった。平民の中でも農業、工業、商業に従事して金持ちになった家が数千、数万もなった。

大阪は見本の都市だった。申維翰は「天下の楽園と言える」と羨ましがった。韓国名賢の文集の中で日本人が最も大切にするのは「退溪集」(管理人補足:李退渓の著作の書物)だった。家ごとに読んで覚えていた。人たちは陶山書院がどの軍に属しているのか聞き、退渓の子孫が今何人もおり、何の官職に就いているのか知りたがった。退渓が普段好きなことが何かなど質問が過度に多く、すべて記録することはできないほどだった本は明らかにしている。学者たちは崔致遠から薛聡に至るまで韓国の文廟に祀られた先賢の名前を順番に正確に覚えていて、韓国の国の学者たちの文章にも詳しかった。

国家機密に属する書籍も堂々と日本で流通されていた。金誠一の海事録、柳成龍の懲毖録、康恒の看羊録などの本だ。通訳官が密輸で日本に渡したと推測された。申維翰は「我が国の綱紀が厳しくていない為だ」とし「敵を偵察してくるのに敵に教えてるのと何が違うというのか」と嘆いた。

食べ物は少なかったと記載されている。 ほとんどの日本の食べ物がおいしいと記述する。 しかし、鯨の刺身だけは美味しくなかった。日本人はクジラの刺身を最も貴重に思い高い値段で買い入れてお客を接待した。鯨は捨てることがなく大きな鯨一頭を捕えれば、自分はもちろん子孫まで裕福になることができた。申維翰は「しかし、食べてみたら柔らかくて滑りやすく、油っぽいだけで、これといった味はなかった」と冷ややかだった。

跪いて座る(正座)のは服飾に由来した。 道でお酒を売る女であれ、穀物を収める人であれ、必ず二つの膝小僧を土に当てて服をただして座る。 服が短くズボンがない、そうしなければ男であれ女であれ、隠れた場所を区別することができないことになる。 やむを得ずひざを折って座った規範が生まれ、それが習慣化されてしまったのだ。

中世以降、日王は操り人形に転落したが、その位相はさらに低くなって日本人たちは朝鮮通信使たちに日王の存在が知られることすら極度に警戒した。 朝鮮国王と日本王の間に国書の交換が行われなければならないが、将軍がこれを代わりにした。
長男を除いた日王のすべての息子は出家しての称号を法親王としており、娘も尼になるようにした。 駙馬(皇帝の影武者であり皇帝の娘婿が務める)や王女という名称も日本には存在しなかった。

日本人たちはハングルに強い関心を示した。 名古屋でハングルを示してほしいと述べられ、どの時代に誰が創製したかどうか尋ねた。ハングルを書いてすると、彼らは「文字の形が星や草木のようだ。 龍馬の背に描かれた絵や亀などに使われた文章の形を取って作ったことが明らかだ」と評価した。

新羅が日本本土を攻撃したという記録も本に登場する。韓半島で日本の広島などの入口である下関には白馬塚があった。新羅王が長寿王を送って日本を攻撃すると、日本人たちがこれに屈服し講和を結ぶことを求めた。 新羅の長寿王は講和の表示で白馬に殺して墓を作った。 日本風俗では墓で方墳を作っていないが、白馬塚は、方墳があることから、新羅人が築いたのが間違いないと著者は説明している。日本人たちの墓は自然に膨らんだ形をしていると書いてあった。

壬辰倭乱の時、倭軍は数多くの朝鮮人を捕虜にしていたが、村全体が日本に連行されたりもした。京都付近の淀川のふもとには、晋州島という村があり、ここには晋州出身の捕虜が集まって住んでいた。壬辰の乱が勃発してから100年度以上過ぎた申維翰の訪問当時、晋州出身たちが居住しており、他の地域出身は1人もなかった。 申維翰は「その時のことを考えてみると、身の毛もよだつ」と書いた。

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申維翰一行を案内した雨森芳洲の肖像。朝鮮との実務交渉を担当した外交官だ。

申維翰一行と別れたとき、彼らの案内を務めた雨森芳洲(1668~1755)という日本人が涙を流した。 申維翰はしかし、本の最後に「表では文人の顔をしているが、心の中に槍と刀を抱いていて権力を握ったら、必ず朝鮮に害を及ぼす人物」と評した。

出典:http://news.mk.co.kr/newsRead.php?year=2016&no=686716

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スレ主韓国人

18世紀当時、申維翰が見た日本の特徴:

1)学問と芸術に対する執念が強い。朝鮮通信使に文字や絵の依頼が殺到する。毎日、昼夜を問わず詩を書いてくれとせがむ日本人たちに振り回されて憂鬱でもどかしいくらい。 さらに、夜明けにも来る。これから見て、朝鮮後期まで日本は朝鮮を文化的に学ぶことが多い国と認識したようだ。

2)日本の猥褻な風俗は衝撃的風俗街の娼婦たちの形があまりにも最低に思って口にすることもできないほどだ。男娼の風潮については唖然とする。そうしなくても性について、大変保守的だった朝鮮の儒者にはおびただしい衝撃だったようだ。
性風俗が淫らなのは日本の伝統とみる事が出来るようだ。

3)技術を崇める文化は高く評価するに値する。家と家を建てる材料は一寸の誤差もなしに規格化されており、建物のを各種の岩、木々そして花で飾って。これでみて日本人たちが可愛らしくてきれいにちゃんと飾るのは種族特性かも。

4)大阪はかなり立派な都市であったこと。大阪の道はよく整備されていて道には塵一つない清潔さ。橋は200個余り、寺は300個余りも存在しており、豪商や家臣の良い家はその二倍となる。平民の中でも金持ちになった家が数千、数万。

5)本をたくさん読む。朝鮮の文集の中で、日本人たちが最も大切にするのは退溪集。何処の家でも読んで覚えていた。人たちは陶山書院がどの軍に属しているのか聞き、退渓の子孫が今何人もおり、何の官職に就いているか知りたいと思ってた。李滉が普段好きなことが何かなど、些細なことから質問が多すぎて記録することはできないほど。さらに、朝鮮の文廟に祀られた先賢の名前を順番に正確に覚えており、朝鮮の学者たちの文章にも精通していた。

6)国家(朝鮮)機密に属する書籍が堂々と日本で流通されている。海事録、懲毖録、看羊録など。申維翰は「我が国の綱紀が厳しくていない為だ」とし「敵を偵察してくるのに敵に教えてるのと何が違うというのか」と嘆いた。

7)日本人たちはハングルに非常に関心を持っていた。名古屋でハングルを教えてほしいと言い、どの時代に誰が創製したか質問される。ハングルを使うと、彼らが言うには「文字の形が星や草木のようだ。 龍馬の背に描かれた絵や亀などに使われた文章の形を取って作ったことが明らかだ」と評価した。

Source: かんこく!韓国の反応翻訳ブログ