連載「政官財の罪と罰」
著者:古賀茂明(こが・しげあき)/1955年、長崎県生まれ。東京大学法学部卒業後、旧通産省(経済産業省)入省。国家公務員制度改革推進本部審議官、中小企業庁経営支援部長などを経て2011年退官、改革派官僚で「改革はするが戦争はしない」フォーラム4提唱者。元報道ステーションコメンテーター。最新刊『日本中枢の狂謀』(講談社)、『国家の共謀』(角川新書)。「シナプス 古賀茂明サロン」主催
韓国の最低賃金委員会が7月14日、2019年の最低賃金(時給)を前年比10.9%増の8350ウォンにすることを決めたというニュースが入ってきた。直近の為替レート換算では約830円ということになる。日本では、17年10月から適用の最低賃金が全国加重平均で848円。これにかなり近い水準となっている。文在寅(ムン・ジェイン)大統領は、20年までに最低賃金1万ウォンを達成するという公約を掲げているので、多少それを下回ったとしても、日本の引き上げペースは非常に遅いため、20年には日本を追い越すことはほぼ確実だ。
このニュースを聞いて、今年2月12日の本コラム(「安倍政権では民主党政権下の実質賃金を上回れない現実を報じないメディア」)でも一度取り上げた「先進国」とは何かという問題を想起させられた。
「先進国」に公式な定義はない。経済協力開発機構(OECD)が「先進国クラブ」と呼ばれるが、そこには、歴史的経緯もあり、トルコやメキシコなどの途上国が含まれている。国際通貨基金(IMF)による「Advanced Economies」という定義が最も有力で、内閣府などは、この定義を使っている。いずれにしても、先進国の基準としては、一人当たりGDPが重要な指標であることははっきりしている。中国などは、経済大国ではあるが、人口が多く、一人当たりでみるとまだまだ水準が低いために「先進国」とはみなされない。一人当たりGDPで見れば、一応、日本は先進国と言われているし、それを疑う日本人はほとんどいないだろう。
一方、先進国の対語として、発展途上国または開発途上国という言葉がある。先進国の定義を考えるには、途上国との対比をするとわかりやすい。
途上国は、何よりも経済成長を最優先する政策を採るのが普通だ。社会保障、労働などの政策は優先順位で劣後し、人権、環境、公正なルールの整備・執行なども後回しになる。労働者の側も、働けば給料が増えるから、労働条件が多少悪くても文句を言わずに働くし、その他のことも、多少問題があっても目をつむる。子どもは多い方が生活が豊かになるから、出生率も高い。その結果人口が増えるから、いわゆる「人口ボーナス」もあって高成長が続く。日本の高度成長期初期は、まだこうした時期にあったと評価することができるだろう。
一方、そうした段階を経て、経済がある程度の規模に達し、国民一人当たりGDPも上がって豊かになってくると、徐々に出生率が下がってくる。さらに、教育環境が変化し、子どもにはお金と手間がかかるようになる。子どもの給料を当てにしなくても世帯の生活は安定して来るから、無理して子どもを増やそうというインセンティブも無くなる。こうして人口減少時代が始まるのだ。人口オーナスと呼ばれる人口減少によって経済成長の速度は減速する。日本は今、この段階にある。
こうした発展段階になると、人口減少によって、労働力が貴重になり、賃金は上がって労働条件も向上する。企業も優秀な人材を確保するために対応を迫られ、高い労働条件を提示できない企業は淘汰されて当然ということになる。こうして、自然と「人を大切にする」社会になっていく。
また、経済最優先を続けると公害などが発生し、資源・エネルギーの制約も生じる。経済的にゆとりができた市民は、健康や安全に敏感になり、自然や環境を守れと要求する。企業がそれに対応することで、新たな産業分野が開かれ、それが国際競争力を高めることにもなることが認識されるようになる。その結果、「自然・環境を大切にする」社会への転換が進む。
さらに、生活水準が向上すると人々に余裕が生まれ、教育水準の向上と相俟って、社会的正義への要請も高まる。民主化はもちろん、「公正なルールを保持、執行する」社会が求められるのだ。
西欧・北欧諸国を見ると、概ねこうした課題に応えて、先進国となっていったのがわかる。一人当たりGDPが高いだけではなく、こうした要請すべてに応える経済・政治状況を実現するのが、真の先進国ということになるのではないだろうか。
この観点から見て、日本は先進国と言えるのか極めて疑問である。
さて、冒頭のニュースに戻ろう。
韓国の最低賃金の引き上げ率は、毎年7%程度が続いていたが、文大統領の就任後、昨年は16.4%、今年も10.9%とかなり急ピッチの引き上げが続いている。こうした急進的なやり方は、企業側に大きな負担となるため、かえって雇用を削減したり、脱法的な動きが生じたりして、必ずしも低所得層の生活改善にはつながっていないという批判もある。
現に、直近の統計では、18年1-3月期に経済格差が前年より拡大したという結果も出ているし、失業率もかえって悪化しているという統計もある。昨年に比べて、今回の最低賃金引き上げ率を5.5ポイント縮小したのは、その点への配慮だと考えられる。
こうした推移を見て、日本の嫌韓派は、韓国の経済政策は失敗したとはやし立てている。もちろん、彼らは、アベノミクスで日本の経済が復活したと信じている人たちだ。
また、日本の産業界も、「最低賃金の引き上げは慎重に」という時に、必ず、韓国ではうまくいっていないということを理由に挙げることになるだろう。
しかし、果たしてそれで良いのだろうか。
日本では、いまだにサービス残業が事実上放置されている。そして、今も、残業時間が青天井という驚くべき状況にある。「過労死」という言葉が世界に広まるほどの恥ずかしい状況だ。今回の働き方改革法成立で、そうした構造にようやくメスが入り、残業時間の上限が19年度から、原則年720時間となるなど法律ではっきり義務化される。
それはそれで、一つの進展なのだが、今回の働き方改革の議論でも、まずは、企業の都合が優先されるという体質は変わっていない。新たな規制の適用は、19年度からだが、中小企業には1年の猶予がある。中小企業が大変だからという企業の都合によるものだ。逆に言えば、中小企業の労働者は、大企業の労働者よりも人権保護のレベルが低くて良いというのが日本政府の立場だということだ。
また、驚くべきことに、建設、自動車運転(運輸)、医師は5年間もこの規制の適用が猶予される。これも企業や病院が大変だからという理由で、ここで働く人々の人権は無視されたままだ。しかも、運輸は5年後も他業種より緩い年960時間の上限規制となることに決まっている。月80時間だ。ここでも企業が大変だからという理由で、トラック運転手の健康や人権は他の産業の人よりも一段低い扱いにしてしまったのだ。
一人当たりGDPでは、日本はかなり落ちぶれてしまった。だから、もう先進国ではないという考え方もあるだろう。17年には、シンガポールの57,713ドル(世界9位)に比べて、日本は38,440ドル(同25位)だから、シンガポールは日本の1.5倍だ。
しかし、そうは言っても、韓国の29,891ドル(同29位)よりは8000ドル以上高く、約1.3倍もある。その比率で言えば、韓国が830円にする最低賃金は、日本では1067円くらいでもおかしくない。これは東京都の最低賃金958円をはるかに上回る数字だ。逆に、韓国が日本並みの最低賃金にするなら、660円でも十分なのだが、韓国は、かなり背伸びをして、これを思い切り引き上げようとしている。これが本当にうまくいくかどうかは、もう少し時間を見て判断しなければならないだろうが、韓国は、日本より、はるかに労働者の利益を優先する政策を採っていることだけは確かである。労働者の生活水準を上げて、それでもやっていける経済を作らなければ、人口減少社会は乗り越えられないということを分かったうえでの政策なのか、単なる人気取りなのかはわからないが、日本よりも厳しい人口減少社会に入った韓国は、結果的に日本以上に先進国になる準備をしていることになる。
ちなみに欧州諸国も、労働条件を上げてもやって行ける経済を作るのには大変苦労した。各国とも20年程度は苦闘の歴史だったと言っても良いだろう。その意味では、韓国の試みが数年で実を結ぶと考えるのは明らかに楽観的過ぎるし、数年で結果が出なかったからと言って、失敗だと断定するべきではないと考えるべきだ。
アベノミクスは、企業を優先する金融緩和と円安で輸出を増やし、企業収益増と株高を実現すれば、そのおこぼれ(トリクルダウン)で労働者の収入増は後からついてくるはずだという戦略だ。つまり、まず、真っ先に企業が儲からなければすべてがうまくいかない。企業ファーストの政策だから、逆に言うと、企業が困ることはできない。
一方の韓国は全くその逆で、まず、労働者優先の政策で彼らの生活水準を上げ、その購買力によって企業利益や経済全体が拡大すると考えているようだ。
最低賃金へのアプローチも、両国の根本的な哲学の違いが反映していると見ることができる。
日本には、少なくとも、「企業が困るからトラック運転手の人権は守らなくて良い」という非人道的な政策を止めるくらいの余裕はある。格差拡大の問題を挙げるまでもなく、もうそろそろ、労働者中心の政策、つまり、「先進国」を目指す政策に転換する時が来ているのではないだろうか。
■優秀なアジアの若者が働きたい都市はドバイ、シンガポール、香港、ソウル
韓国の最低賃金引き上げのニュースを見て、先日、アジアの高度人材を日本企業に紹介する事業をしている上場企業の経営者から聞いた話を思い出した。
「アジアの優秀な若者がアジアの都市で仕事を探す時の優先順位は、1位ドバイ、2位シンガポール、3位香港、4位ソウル、そして、その次が東京という順番です」
「日本のイメージは、一言で言えば、『低賃金ブラック』。でも、政府も経団連のお偉方もこれに気づいていません」
東京がソウルの下と聞いて、やはり、そこまで来ているのかと思ったが、最低賃金に対する政権の姿勢から見ても、これは当然のことだなと感じる。
底辺層の賃金で韓国に負け、高度人材でも、東京がドバイ、シンガポール、香港はもちろん、ソウルに負けるということでは、日本がこれからの世界の競争で勝ち抜くことは難しいと言わなければならない。
先進国から事実上転落しつつある日本が、引き続き先進国としての経済社会を目指すなら、基本哲学として、企業よりも人を大切にする社会を目指すことが必要だ。それは、賃金の引き上げや労働時間などの条件を今よりも格段に向上させる実力のある企業を生み出すということでもある。
早く基本哲学を転換しないと、本当に日本が先進国から転落することになるのではないか。その時は、意外とすぐそこまで迫っているのかもしれない。
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Source: おもしろ韓国ニュース速報