韓国の歴史は嘘で塗り固められている。
『韓国と日本がわかる最強の韓国史』を上梓した八幡和郎氏が隣人の「歴史修正」を暴く。
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韓国がご都合主義で歴史を作り替える例は枚挙に暇がない。
最たるものは「建国」の嘘である。
紀元前後に村落国家に近い小国(新羅の元になる国)が誕生した。
それが徐々に大きくなって4世紀頃から高句麗、百済と朝鮮半島の覇権を争った。
最終的に唐が高句麗、百済を滅ぼしたのち、新羅がその旧領の一部を譲られて統一国家が成立した。
これが、高麗時代にまとめられた正史『三国史記』に記されている、朝鮮半島の伝統的な歴史認識だった。
ところが、19世紀頃、ナショナリズムの高揚とともに韓国は、約4000年前の檀君という伝説の人物を建国の祖だと言い出した。
これは『三国史記』には登場せず、同じ頃にまとめられた『三国遺事』という民間伝承をまとめた史書に、ひとつの民間伝承として書いてあったものだ。
天帝の庶子が太伯山に降り、メス熊を妻として産ませた檀君が平壌を都として建国を宣言したとされる。
正史ではないただの民間伝承を公的に認めたのだ。
これは中国で実在するかどうか微妙な夏王朝よりも古いことになる。
一方、日本では西暦57年に奴国王が後漢の光武帝から金印をもらい、236年からは魏と邪馬台国の交流が始まる。
その頃、朝鮮半島南部には奴国や邪馬台国に匹敵する国家は存在しなかった。
文明の水準もかなり違ったことが『魏志東夷伝』に記されている。
半島南部は「ただ囚徒・奴碑相聚(ぬひあいあつ)まれるごとし」とされ、日本は「その風俗は淫らならず」と記されている。
また、『日本書紀』によれば、4~5世紀頃、朝鮮半島南部が小国郡立であった頃に、日本は「任那(みまな)」と呼ばれる小国連合を束ねて自国領土とみなしていた。
朝鮮半島が大和朝廷の領土の一部だったことは日本側の記録だけでなく、中国の史書や高句麗の好太王碑(*)の記述からも裏付けられる。
中国南朝の宋国に使節を派遣した倭の五王の武(雄略天皇)は上表文で「北の方の海を渡って、平らげること九十五国に及んでいます」と言ったと『宋書』に記されており、好太王碑にも新羅や百済をめぐって日本と争ったことが記されている。
にもかかわらず、半島南部が日本の支配下にあったことを韓国人は否定する。
認めてしまえば、日韓併合などに多少なりとも正当性を与えることを危惧し、さらには彼らの自尊心がそれを許さないのだろう。
任那は新羅(韓国がその継承国家)に侵略された日本領だというのが古代日本国家の見解だった。
※SAPIO2018年3・4月号
NEWSポストセブン 2018.03.27 07:00
http://www.news-postseven.com/archives/20180327_657742.html
史料から探る歴史学 じゃなくて、出土した遺構から推測するしかない考古学に分類されるのに
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Source: おもしろ韓国ニュース速報