(中略)
以前、日王は「アラヒトガミ(現人神)」だったが、政治的実権がない象徴的な日王になった。「象徴天皇制」が日本国民の中に席を占めるようになったのには明仁日王の役割が大きい。侵略戦争の責任者であったヒロヒトを父に持つため在任期間中ずっと国内外の戦争犠牲者慰霊や災害地域訪問を継続する「平和の歩み」を見せた。
彼は慣例で行う新任総理招待王室歓迎晩餐も安倍総理の時は省略し、太平洋戦争A級戦犯東条英機などが合祀された靖国神社は一度も訪れなかった。住民9万4000人を含む20万人が命を失った第二次世界大戦末の最大激戦地であった沖縄は11回も訪問した。中国、サイパン、パラオ、フィリピンなど太平洋戦争激戦地もあまねく巡礼しながら過去の戦争の悲惨な歴史を忘れてはならないと訴えた。
期待した日王明仁の韓国訪問はなされなかった。韓国外交部が先月公開した資料によれば明仁日王が王世子の時期、二回、韓国を訪問する機会があったが成し遂げることができなかった。彼は「桓武(737~806年)日王の生母が百済武寧(ムリョン)王の子孫」とし、韓国との縁を感じると強調し、韓国と関連が深い高麗神社に参拝して目を引いた。1990年には韓国支配について「痛惜の念」を禁じえないと反省した。
もしかしたら最後に残った「韓国訪問と謝罪」のパズルも彼が解きほぐせば良い。「退位後の明仁」の歩みが期待される理由でもある。
1970年12月7日、ポーランドを訪問中だったウイリー・ブラント西ドイツ総理が「ワルシャワゲットー蜂起」犠牲者を追悼する記念碑に献花後、突然ひざまずいた場面を私たちは記憶する。この日ブラントがひざまずいたのは数十秒に過ぎなかったが、どんな謝罪の言葉より感動的だった。
ブラントの行動は戦犯国家ドイツに対し持っていた世界の人々の先入観を変えた。明仁が「日王」を下ろして「上王」になっても軍国主義に駆け上がる日本を牽制し、平和を仲裁する役割は継続するよう願う。近づく令和時代にはこの様な「感動的な場面」が現実になるか誰が分かるだろうか。
ソース:釜山日報(韓国語) [キム・ウンギョンコラム]ブラント、明仁そして平和
http://www.busan.com/view/busan/view.php?code=2019042519105224787
_ノ乙(、ン、)_キチガイ全開スレ
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Source: おもしろ韓国ニュース速報